前回に続き、『シャンバラ−勇者の道』の中で述べられていた “痛み” “恐れ” “悲しみ” などについて対談をしたのでご紹介いたします。
瞑想プロセスにおける、恐れや悲しみについて
松村憲: 前編で出てきた、瞑想しているときの経験やプロセスにおける ”恐れ” とか ”悲しみ” について、美佳さんはどう思いますか?
小島美佳:この本を読みながら私が思ったのは、恐れや悲しみのプロセスは絶対に誰にでもやってくるもので、ノスタルジー的な要素があるものだと感じます。しっかり感じ取ることは大切ですね。
ただ、そこに浸り過ぎている人に対しては、「もしもし?」みたいに言いたくなることがあって(苦笑)。「居たいなら、そこに居てもいいけれども、ずっと居たところで永遠のループが続くだけなので、今の状況さえもマインドフルに見られる所にまで到達できたらいいね」と感じますね。
松村憲:なるほどー、そうですよね。
『悲しみに浸る自己憐憫』と『悲しみを知っているけれども、前を向いて歩いている人』の違いみたいな感じかなぁ。
小島美佳:悲しみが必要ないかって言うと決してそうではなくて、すごく大事な感情なんだけれども、何かそこにどっぷりと浸りすぎるわけでもなく「あーなんかちょっとこれは痛いなぁ」程度に 大事にできる…。
悲しみありきではなく単純に悲しみを大事にできる、穏やかに哀しみを味わえるようになる次元が欲しいなぁとは思いますね。
松村憲:そうですね。
だからその辺のところがきっと瞑想プロセスとしてもすごい大事だろうと思うし、結構そこの部分が僕がこの本が好きな理由でもあって、「そうなんだ」って再認識するんですよね。
で、マインドフルネスそのものなのかもしれないけれども、“恐怖” とか “恐れ” って、例えばセラピーとかコーチングをしていても、あるいは自分のことを振り返っていても、やっぱり人間のエゴって結局恐れの塊で出来ていると思っていて、けれども自覚されてないことっていっぱいある。
「俺怖くない」って言っていても、でも実は本当は怖いわけじゃないですか。
急に自分の死を身近に感じると怖くなったりもするし…
この本に書いてある部分で好きなのは、チベットの勇者の道で言う「勇者」というのをシンボリックに書いてあるところで。要は『瞑想していく時に到達すべきモデル』について述べられていると思うんです。
勇者が感じている “恐れのなさ” と言うのは、まず ”恐れ” を経験しなければいけないと書いてある。
「臆病さの本質は、そこに ”恐れ” があることを認めないことにある」って書いてあって、本当にその通りなんだろうなと思います。
「怖い」と感じている自分を知ること、それは実はとても強いことで、何かが「怖い」と感じられると、自分の中の弱さが開かれていく。
そこにはきっと ”悲しみ” とかも感じるだろうし、でもその悲しみの心に反応するのではなくて、しっかりとその涙に洗い流されたときに、優しさが現れてくるみたいな。そんなプロセスを何回も繰り返すと思うんですよ。
身近なところで考えてみると、佇まいなどから「あー、この人は素敵な人だなぁ」とか「優しくて、懐が深いなぁ」と感じる人いますよね。そういう人は、今話したみたいに悲しみや痛みを何度もくぐり抜けてきた人だったりすると思います。
人間的な感情に蓋をするマッチョな人たち
小島美佳:最近、私自身が組織の中に入って、マッチョな世界観を垣間見る体験が沢山あるので、『恐れを抱くのは弱い証拠』とか、『臆病さ=恐れがあることを認められない』といったことは凄く感じるんです。
組織の中を観察していると、例えば「実行する」ことによって自分の中にある恐れをかき消してきた成功者って結構な数いるのかなーと感じます。
実際、そういうマッチョな成長を遂げてきた人たちは強いし、修羅界のようなところで戦い続けてきて、ある程度の成功を手にしてきている。
だからこそ、あんまり立ち止まって自分の中にある臆病さとか、本当は恐れている部分に目を向けない癖をうまくつけてきたんだろうな、そういう集団なんだろうな、と感じることが多いのですよね。
そのすごい力強さの裏にある、なんとも言えない脆さみたいなものを垣間見る機会もすごくあって、その状態を見ていると私自身が痛みを感じ始めるというか(苦笑)。
私の中で、それはどうやってアプローチしたらいいのかな?といった問題解決思考に寄っちゃうこともあるし、「おおおー!」と思いながら観察していたりもします。
集団の思考としても存在している気がします、「これ(恐れなど)は見ないようにしよう」みたいな。
松村憲:今の美佳さんの話を聞いていると、本当にその通りだなと思います。
個人というよりも集団的とおっしゃられたように、マッチョとかいわゆる今の資本主義的な部分で世界をリードしているビジネスとか、そこに携わる人っていうのは、どうしても恐れの前で立ち止まるのではなくて、さっき言ったみたいに実行でかき消すとか、修羅の世界に留まってしまうと思います。
でもやっぱり人の部分もあるから、そこで無視したり、抑圧したり、見ないようにしているものがあって、それは “恐れ” だったりその他の感情だったりする。
さっきの勇者の話で言うと、「自分の中にある怖れ」を認めて開かれていくと、強さの次なるステージがあるのですが、集合的な観念から抜け出す怖さもあるでしょうね。
小島美佳:そうですね。
私は自分に当てはめて考えてしまったんですけれども、私自身がコンサルの業界でゴリゴリやっていた頃は、まさにその修羅界に自分の身を浸していたと思うんです。
修羅界は、弱いか強いかで人を判断するところがあるので、どうしても『弱さを認められる強さ』みたいなところまで行けないというか…。
いまの瞑想ブームを眺めていると、(一般的にはパフォーマンスを向上させるとかストレスを軽減させるといった目的もあるけど)こういった修羅の世界にいる戦闘員たちの心を開き、痛みも感じられる勇者の方向に成長できる道筋が準備され始めてきたんだろうなぁと思って。
そういう意味では、表向きのストレス軽減や集中力向上は方便ですよね。
さっきの話にあった痛みに浸りきっちゃってヤッホーな人たちも、一歩前に進むエネルギーをマッチョな人達から貰うと良いのかもしれないですね。
両方(修羅界とノスタルジー)のスタンスのバランスをとって統合していくみたいなものなのが1番理想的なのかなーと思いました。
松村憲:すごい。
小島美佳:すごい!繋がりましたね!(笑)
修羅界から解脱して阿修羅(勇者)になる
松村憲:さきほどの話で出てきたマッチョな修羅界の人たちは、やっぱり立ち止まらなさ過ぎる、バランスとしては立ち止まることも時には必要と感じます。
美佳さんがそういう人たちに関わって自分が痛みを感じ始めるっていうのは、彼らが切り捨てているものが強過ぎるから、だと思いますね。
でもそれって “痛み” が当たり前になってしまった不感症に近いので、実は解離している。
誰かが痛みを感じてお返ししてあげると、彼らも忘れた感情を取り戻しやすくなったりもします。
グループでの対話も企業で取り入れられるようになってきましたが、誰かが切り離した感情を誰かが拾って感じてあげることで、その人も周囲も癒されるセラピューティックなプロセスがそこにはあると思います。
それから、ビジネスに瞑想の視点が入ってきたことはとても良い流れだと感じています。修羅がダメのではなくて、修羅がもっと目を開いて行った時に「そこに痛みもあった、怖さもあるね」といったことを引き受けられる本当に優しい阿修羅みたいな境地に、まさにチベットの勇者になると思います。
それって多くの人の希望にもなりますよね、きっと。
逆に「ビジネスとかマッチョでゴリゴリしたのは嫌です!」と言って、瞑想の平穏、静けさのみに浸っている人たちには、そこから1歩踏み出すために修羅のエネルギーがむしろ必要と思うことも多いです。
平和志向の人たちでマッチョの人たちを『異常に敵対視』している場合は、恐らく自分の中のエネルギーを投影していると思います。
感情を感じるのを恐れるのとは逆に、自分の中のパワーを感じることに怖れがあるのだと思います。
小島美佳:そうですね。
松村憲:ちゃんと「悲しみが私にもあるんだ」とか、「この世界は私にとって心地よくない場所なんだ、辛いんだ、痛いんだ」としっかりと受け取ったときに、他者に投影するのではなくて、自分のパワーを使って「じゃあ何しよう?」って言う世界が待っていると思います。
テーマはそれぞれにありますよね、光のテーマと言うか。
まさに両方をしていくと良いなぁとか、本当はそういう大きい流れがあるような気がしますよね。
小島美佳:本当にそれぞれが歩み寄るというか、まず互いのエネルギーを取り込むっていうのは、本当に大切なことなんだろうな、という風には思いました。
両方とも手に入れることをやらないと、結果的に1つレベルアップするって言うことにはならないのかなと…そういうことですよね。フムフム。
松村憲:そこに行くためには、何かどこかのタイミングで絶対、瞑想なり瞑想的なものが必要なんだろうなぁと著者も書いていたけど、その思いは話しながら確信になりました。
小島美佳:そうですね。
瞑想の本当の意味が分かるというか、入口は「ストレスフリーになりましょう」とか「集中力を高めましょう」とか「癒し」とかでも全然良いのですけど、最終的には大げさに言うと『魂の成長のため』みたいな。
なんかそういう感じなんだろうなっていうのは改めてわかりました。
松村憲:『自分を拡大する』とかね。
そういうところにまで行こうと思うと、本当にそれまでの発達段階的なロジカルな視点だけでは超えられないところがあるんだなぁと感じます。