鬼滅の刃と心理学・マインドフルネスの連載5回目になります。
松村憲:『鬼滅の刃がなぜ子供たちに刺さるのか? ユング心理学の集合的無意識から解説』では、ユング心理学で言われる集合的無意識領域まで響いて子供達にも人気なのでは?といったお話しをしました。
今回はさらに踏み込んで『なぜ多くの人が鬼滅の刃で感動し、癒やされるのか?』という点について、以前からお話したかったユング心理学の元型論と鬼滅の刃で描かれる元型からお話していきたいと思います。
目次
ユング心理学で提唱された『元型』とは
ユング心理学の意識と無意識
松村憲:まず元型というのはユング心理学の考え方です。ユング心理学では心の世界を『見えている世界や意識』だけでなくて、無意識の領域も含めて全体的に深く分類していったのがすごいところなんですね。
鬼滅の刃という物語全体が意識のいろんな層の深みまで表していると考えると、例えば主人公の炭治郎という少年が『私たち、自我(エゴ)』を表現していると考えられます。自我(エゴ)が日々認識できる部分 『意識』の下層にある無意識領域には元型の一種でもある『シャドウ(影)』などがあります。(下図参照)
ユング心理学における元型の一覧
鬼滅の刃では様々な出来事や出会いやストーリーがあり、その中でも一番わかりやすい元型が『シャドウ』を表す鬼たちとも言えます。炭治郎たちはシャドウ(鬼)に出会い、戦い、自分の中に存在する怒りに目覚めたりすることによって、より自己(セルフ)に目覚めていくストーリーと見ることができます。
世界中に存在する神話やヒーロー(英雄)もののストーリーは大抵、主人公は『シャドウ』と対決していくことで英雄になる、より自分になる物語です。このように世界中に残る神話や英雄のストーリーに類似性があることから、ユングは「より深い意識の層に集合的無意識(個人の経験を越えた、民族や人類の心に普遍的に存在する領域)がある」と考えました。
集合的無意識・普遍的無意識に存在する元型
鬼滅の刃の原作を読んだりアニメや映画を見ることで、普段考えていない心のいろんな部分が揺り動かされたりしながら、だんだんと深まっていき、自分の心の深い部分に触れていきます。その結果、えもいわれぬ存在に出会うという段階があるんです、イメージの世界とか心の世界とか。それが、集合的無意識に存在する元型と言われる存在や領域です。
元型とは、
(臨床心理学用語辞典より引用)
集合的無意識の内容の表現(夢など)の中に見られる、共通した型をさします。
元型という考えは、集合的無意識が認められて初めて存在する概念です。元型は、個人の体験に基づいて構成されるのではありません。人類の極めて長い経験の蓄積の結果、構成されたもので、遺伝的に心に継承されると考えられています。
例えばシャドウ、ペルソナ、アニマ、アニムスなどは心理学によって分類された元型の種類の例です(ペルソナは元型に含まれないなど、分類には諸説あります)。
元型は、すごいエネルギーを持った人物とか像・イメージとして心の奥深い世界である集合的無意識から浮かんできて、個人的無意識や意識に作用します。それらにユング心理学では意味を持たせるんです。
s子:Wikipediaでのユングの記述でも『ユング自身は、夢に見られる元型に関して、遺伝に関連づけて言及していたくだりがある。無意識に蓄えられている遺伝情報は莫大であり、人の心性がそれを基礎にしているからには(中略)遺伝情報内の大量の経験データで元型の普遍性も説明できるであろう』って書いてありました。
実際、ヒトのゲノム全体 約30億塩基対のDNAの中に、実際に設計図として使われる意味のある遺伝情報を持つ遺伝子が占める割合は1〜2%程度、多くとも5%くらいだろうと言われています (参考:NHK 高校基礎講座生物)。その他の95%以上の配列は、ほぼ無意味な繰り返し配列だったり転写後に除かれるイントロンと呼ばれる配列だったり、染色体構造維持のための配列(テロメア・セントロメア)だったりするので、、、
そういった無意味と考えられていた領域に集合的無意識とか元型の普遍性とかの何かが潜んでいる可能性もあるかな?と個人的には思いました。逆に全く意味のない膨大な配列をせっせと複製して、また子孫に引き継ぐのを続けているのも不思議だなぁと感じていたので。
鬼滅の刃で描かれる象徴的な元型
松村憲:例えば鬼滅の刃の中ですごい元型的だなと思うのは、鬼殺隊を支える最上位の剣士たちの『柱』ですね。
(※注『柱(はしら)』:鬼滅の刃に登場する鬼殺隊は細く11もの階級に分かれていて、その中でもっとも位の高い9名の剣士のことを『柱』といいます)
Source : ANIPLEX 公式Youtube
『柱』ってすごい集合性をさらに超えている存在たちで、キャラが立っていてそれぞれの魅力があります。元型は普遍的な無意識と言われる心の最深部にあるものなので、柱たちのキャラが現れてくると見てる方の心にも深く響いてきます。
柱たちは独特でユニークじゃないですか、ほんとに個性を生き切っているみたいな、中途半端を超えていますよね。だから炭治郎や善逸、伊之助たちもさらに修行していけばきっとそうなっていくだろうと思います。それっていわゆる自分に向き合っていくとか、自分になっていくプロセスです。
一方で、自分と向き合うことをしない人たちはどうなっていくかと言うと、もう少し中間くらいの集合意識があるんですけれども、その象徴が一般鬼殺隊員みたいにしてに描かれていますよね。みんな同じ黒い隊服を着ていて、すごい集合的で同じことをしているみたいな。
元型的という点でお話すると、柱の他で近いのは鬼の無惨とか上弦の鬼とかもそうですよね、上弦まで行くとすごい個性化してるんですけど、その下には一般の鬼達もいっぱいいて一般鬼殺隊員同様、中間層みたいな。そんな風に解釈できるかと思います。
鬼滅の刃の元型的キャラに触れて 自然と癒しが起きる
松村憲:その深い存在たち(元型)が持っているエネルギーに触れていく、出会っていくということが『癒し』だったり心を広げていく作業なので、例えば炭治郎の目線に立って見ると、その変容プロセスが起こっている物語というふうにも読めるかなと思います。
小島美佳:マツケンさんに質問です。「いわゆる元型的な存在のエネルギーに触れていくと癒しが起こる」という視点で物語を見たとき、炭治郎たちが上弦の鬼たちや柱と接する中で、彼らの中に起こる癒しがある、と解釈していいんですかね?
松村憲:そうですね、見方はいろいろあると思うんですけれども、主人公たちに焦点を当てればそうなると思います。
読んでいる読者としての私たちの視点で言えば、そういう主人公たちに自分自身を投影し、物語を通して柱や上弦の鬼たちの元型的な部分に出会い、読むことによって刺激されるみたいな。
『元型的存在たちは僕たちの心の中の無意識の世界にもある、だから反応する』という考えです。
小島美佳:なるほど。よくわかりました。
鬼にも刺激を受ける
s子:今の『元型が象徴的』っていう話を伺っていて思ったんですけれども、私の場合は鬼滅の刃の鬼を見てザワザワと反応することがあります。鬼の中で無惨の次に強い 上弦の壱が嫉妬の塊みたい描かれてたり、上弦の肆(し)の半天狗は被害者意識の塊みたいな鬼で、人を襲って食べてどんどん強くなってるのに「俺は悪くない」「弱い者いじめをォするなああああ!!!」とか言って鬼殺隊から逃げ回って、っていう最低な奴なんですけども(苦笑。
そういうのに「こいつ最低だな、、、」とか反応する自分を見て、ああこういう嫉妬心とか被害者意識とか、だいぶマインドフルネスとかで感じ切ったり昇華したつもりだったけど、反応するってことはまだ自分の中に残っているのかなーって思うことがあって。
柱の生き様に「かっこいい、好き❤︎」って憧れるのと同時に、それぞれの鬼のストーリーによって自分の中にしまいこんでいた見たくないものが刺激されて出てくる、っていうのもある気がします。マツケンさんがおっしゃっていたように、柱とか上弦の鬼それぞれに元型的で象徴的な強烈なキャラやストーリーを、鬼滅の刃ではすごく分かりやすく丁寧に描かれているからかなーと思います。
自分の中の奥深くにあるものが刺激される
小島美佳:読み手やアニメや映画を見ている私たちの中に、例えば「煉獄さんめっちゃ好き!」みたいな人がいた場合、その人は煉獄さんが持つ元型に癒されている、という解釈ができるということですね?
松村憲:できますね、うん。
映画の影響もありますけど、煉獄さんはすごい元型的な存在としての力を発揮したのだと思いますね。そもそも煉獄さん的な部分が自分の中の奥深くにないと感動はしないはずなので、何か呼び起こされてしまったり感動したのだとしたら、やっぱり自分の中にも純粋でそういう力強い、ある意味個人を超えているものに動かされている部分がある、というところに繋がって、癒されるのだと思います。
炭治郎たちが鬼(シャドウ)と戦ってくれることで癒される
松村憲:元型存在はある意味、無数にいるとも考えられますけど、集合的無意識の奥深いところには純粋な元型像があるんです。で、もう少し浅くて意識に近いところ(図1の個人的無意識に近い部分)にある『シャドウ』もまた元型の一種なんです。
さっきs子ちゃんが言ってたような、シャドウの強いエネルギーの塊みたいな半天狗の被害者意識とか、上弦の壱が持つ嫉妬心みたいなものが自分の中に眠っていて反応して、でも結局そういうものってできれば見たくないじゃないですか。
だから日々自分の意識から削ぎ落として、それらをポンポン無意識が拾っているわけですね。無意識は絶対、意識の方が排除したものを全部拾ってくれちゃうので、拾いまくった結果、ああいう上弦の鬼みたいな形になるってことです。
でもそこに向き合わないと自分になっていけない、戦う必要がある、でも戦えない場合はその戦い自体も見たくない。だから鬼滅の刃のキャラクターたちが頑張って鬼と戦ってくれている、戦いながら目覚めていく過程を描いてくれて、自然と癒されたりする感じです。
s子:このキャラ好きだなぁって憧れを抱いたり、逆に鬼を見て「こいつ嫌な奴だなぁ」とか感じるのも、どちらも私たちの無意識の奥深くに既にあるものが反応してる、ということなんですね、、、
鬼滅の刃と共に自己成長するには?
s子:今マツケンさんがおっしゃっていた、戦いたくない見たくないって逃げて抑圧して無意識にしまいこんでいたものが「鬼滅読んでたら出てきた!」って気付いた時に、それらに向き合うっていうのは、具体的にどんなことしたらいいんでしょうか?鬼たちのネガティブな部分だけじゃなく、柱の勇敢さとかに大人になっても憧れてるんだなぁ、とか気づいた時に、それをうまく使って癒しにつなげるには、、、
松村憲:それを癒しに繋げるのだったら、例えば一つには何度も鬼滅の刃を感情移入しながら読むとか。そこに感情移入して読むっていうのがイコール『昇華』になると思います。きちんと向き合うことにもなる。意識的の方がいいけど、無意識的でもいいと思います。
後は解決についてマインドフルネス的に言うなら、「なんか嫉妬っぽいところが出てきたな」とか「あるよね」とひとまず置いといてあげて、でもあまり囚われずに瞑想し続ける。あるいは、その出てきた嫉妬っていうものをたくさん見る。見れば見るほど浄化するので。それか辛いと思いますけど、それでもまだ解決する気があったら、もう少し調べてみるとか。「なんでこんな感情を持っているのだろう?」と。
小島美佳:私は、必ずしも頑張って解決する必要もない気がします…。
すごく気になるキャラが頭の片隅に常にあって、何度も何度も頭の中に登場してくれることによって、自然と癒しは進むんじゃないかな。
松村憲:そう思います。
鬼舞辻無惨の暴力性や鬼たちにも癒される
小島美佳:私自身の話で恐縮ですが、私は鬼のボスの鬼舞辻無惨がずっと気になっていました。一般の人からすると怖い、憎むべき相手の象徴みたいな感じなのかもしれないけれど、個人的に大切なキャラです。無惨様のエネルギーに出会ってから、彼をふと思い出すことが多くなりました。
例えば、下弦の鬼を端から順番に殺してしまう恐ろしいパワハラ会議のシーンなど、よく思い出します。あの冷徹さを怖がりつつ どこかで憧れている自分に気づいてしまったり…。「代わりにやってくれてありがとう、スッキリ!」みたいな。そういう感じで、私は無惨様には、大変お世話になったような気がしています。
松村憲:それで癒される部分もありますよね、ほんとに。
小島美佳:頭の片隅から時々出てきてくれて、ちょっと代わりにやってくれたことで清々したり。元型とかキャラがマインドに登場してくれ続けることによって、それぞれのキャラが無意識に働きかけて役割を果たしてくれている気がします。鬼滅の刃は無惨みたいな暴力性なども、あまりオブラートに包まずに表現してくれているから、余計にいいのかなーって思いました。特に鬼たちに関しては、そういったお役目かもしれません。
松村憲:そう思います。
そういう無惨性とか暴力性とかも、我々の一部として持っているし、世界中に本当はあるわけなので。それも隠したがるのが日常意識かもしれないけれど、そこをうまく創作として安全な物語の枠の中に収まって表現されているので、それによって癒される部分は大事ですよね。
s子:私自身フィクションでも暴力シーンが苦手で、子供から「学校で流行ってるから鬼滅の漫画を買って欲しい」とねだられ、安易に買って読んだら予想外に残酷なシーンが多くて、最初は「うわぁ、無理」って思ったんですけど、、、
マツケンさんが「自己成長のストーリーと捉えると興味深い」ってTwitterで呟いてて、そ、そうかと読み直したら案の定ハマったという、、、(苦笑)結構そういうお母さんも多いみたいです。
小島美佳:鬼たちであっても私たちを癒してくれていると思うと、また見え方も変化しそうですね(笑)。