目次
最強剣士の宿命と才能:『鬼滅の刃』継国縁壱から学ぶ人生の真理
人は皆、自らの才能と宿命に向き合う瞬間を迎えます。大ヒット漫画『鬼滅の刃』に登場する最強の剣士、継国縁壱(つぎくによりいち)の物語は、この普遍的なテーマを鮮烈に描き出しています。
本記事では、鬼滅の刃の世界で描かれた縁壱の『才能』と『宿命』について、マインドフルネスと深層心理学の視点から探究します。さらに英雄神話や現代心理学の知見を織り交ぜながら、縁壱の物語が私たちに示唆する人生の真理について対話しました。この対談を通じて、才能の認識、宿命との向き合い方、そして自己実現への道筋—これらのテーマが、縁壱の剣士としての物語にどのように反映されているのかを考察していきます。
(※原作の内容も一部含まれますので、未読の方はご注意ください)
瞑想が映し出す宿命の姿
s子:私自身の瞑想体験からお話させてください。瞑想会で瞑想中に「もっと自分の才能を活かしなさい」のようなメッセージと共に、鬼滅の刃の始まりの剣士、縁壱さんのイメージが浮かんできたんです。
原作中で最強剣士・縁壱さんは7歳にして卓越した剣術の才を持ちながら、幸せな家庭生活を望み、悲劇を経て最強の剣士となる、という物語が描かれていました。
その後、また同じ瞑想の中で鬼のボスの無惨が現れて「お前もモタモタしていると、縁壱みたいに家族を奪われるぞ」みたいに脅されて、「自分の才能とかよく分からないけど、縁壱さんみたいに自分の子が殺されたら困る、どうしよう」ってすごい動揺したんですよね。
小島美佳:そんなことが瞑想の中で起こっていたんですね、全然知らなかった(笑)。
ただ、瞑想中のビジョンは、しばしば私たちの深層心理を反映するので、何か意味があるのかもしれないですね。
宿命と使命:人生の導きの糸
s子:『宿命に沿って生きる』『才能を使って生きる』とか、言葉ではなんとなく理解できてはいるのですが、実際にはどう捉えればよいのでしょうか。その辺のことについてお二人に伺いたいと思います。
小島美佳:今、s子さんが言ってくれた「自分の宿命が何かわからない」っていうのは、すごく本質的だと思っています。逆に「私の宿命は〇〇です」ってみんなに公言したり言い回ってる人の方が大抵怪しい、といったケースもあるじゃないですか(苦笑)。
「そもそも宿命はあるのか?ないのか?」については様々な見方がありますが、私自身は「ある」と考えています。宇宙の導き、自然の摂理、あるいは西洋なら『神の意図』と呼ぶ人もいるでしょう。 しかし、その具体的な形は往々にして不明瞭です。
例えば、「ここだよ」って言ってもらっている感覚はあっても、具体的なゴールがわからなかったり、道筋そのものは自分で作っていくっていうのが通常ですよね。また、その道のりは決して楽ではなくて、基本的に苦悩だらけ。歩んでいる本人は楽しく冒険している、挑んでいるっていうよりは、厳しくて辛いプロセスだと感じていることが多いと思います。
ですから多くの人は、そこを避けて通ろうとすると思うんですけれども、結局避けて通ろうとした時に、何か大きな力によって「いやいや、なに道逸れてるの?」みたいな感じでムニューって元に引き戻されるみたいな。それに贖おうとするけれども、段々あがいている事自体に意味がないと気づき始めて、流れに従うことの意味みたいなものを見出だすというか。自分の意図と大いなるものの意図がブレンドしたときに、人はそれを「一皮むける」とか『開眼』とか、大げさに言うと『悟り』にあたるのかな、と思いました。
鬼滅の刃は、登場人物一人ひとりのストーリーがしっかり描かれていて、読んでる人に一番刺さるところを見せてくれる、強烈に印象に残る、そんな感じですよね。
英雄元型や英雄神話にも共通する物語
松村憲:そうですね。
今お話しくださった内容は、ジョセフ・キャンベルの英雄の神話や、ユングの深層心理学の英雄元型にも通じる考え方です。
宿命とは、危機や試練を通じて初めて明らかになる、自己実現への道筋といえるかもしれません。
鬼滅の刃の縁壱さんのストーリーも英雄神話でも共通しているのは、まず初めに望まざることが起こる、危機的なことが起こる、そこで一度絶望するわけですよね。その先に前の対談でも出てきた話で、落ちていく、闇落ちしていくストーリーになるのか、危機から上がって決意や試練を乗り越えるストーリーになるのか、という分岐点がある。危機から上がってくる場合は、ある種 宿命に向き合うことになるので、人生における次なる章を生きることになる。その時に変容が起き、才能が開花してくるストーリーは今も昔も東洋・西洋問わずにある気がします。
才能の開花と宿命の受容
ですから「そもそも宿命や才能があるかないか?」という点については、僕も「ある」と感じています。興味深いのは、才能が真に開花するのは、自らの宿命を受け入れた時点だという点です。縁壱の物語がそれを象徴しています。彼は悲劇を経て初めて、剣士としての使命に向き合いました。
別の視点でいうと、自分の宿命を生きないと、大きな役割を生きないと、逆にそれにやられてしまう、というパターンは避け難く往々にしてある気がします。
これは程度の差こそあれ、私たち一人一人にも言えることで、我々の人生も試練と成長、そして自己実現の物語だと言えます。
小島美佳:そうですね。
大きな役割を自ら生きに行くことには非常に葛藤も大きいと思いますが、仕方のないことだと思います。
宿命と試練:人生の岐路における選択
s子:私自身の体験でお話すると、研究や実験がすごく好きで寝食を忘れるほど没頭してやっていたのに、物理的な原因でブチリと研究を続けられなくなる状況が何度もあって。3回目の研究終了のお知らせが来たときには、神様から「お前向いてないから、いいかげん諦めなよ」って言われてるのかな?と思ったりして(苦笑)。それが試練なのか、別の道への導きなのか、判断に迷うことばかりです。
松村憲:なるほど、それは難しいところですね。
小島美佳:自分が本当にやりたいことを貫く際に、その意思を試すためのイベントが起こっているのか、「そこに行くな」という天啓的なメッセージなのか?ってところは、多くの人が葛藤する課題だと思うんですよね。そこで「もう一回ぐらい頑張ってやってみようかなぁ」って粘ってやってみて、またダメだったら「やっぱりだめだったか」って思ったりだとか。
そういう大いなる力と自分の意思とのよくわからないせめぎ合い、ってありますよね。
s子:そうですね、渦中の真っ只中だと自分では中々分からないですよね。今はあまり深刻に考え過ぎず「時が来たらその時に考えよう」くらいに考えてます。
松村憲:確かに、渦中にいる時には判断が難しい。しかし、ある種の「軽さ」を持って接することも大切ですよね。
また、宿命・才能について判断する基準の一つに「やりたいか?やりたくないか?」というのもあります。ただ鬼滅の刃の縁壱さんは、元々は剣士はやりたくなかったのかもしれないですけれど。
s子:幼少期の縁壱さんは人を打ちつける感触は不快で、剣の道を極めるよりも双六や凧揚げがしたいって言ってましたよね。
継国縁壱:宿命と使命の体現者
松村憲:そうですね、しかし縁壱さんみたいな大きな天命を持って生まれた人は、ある意味で「やるしかない」状況に置かれるんですよね。鬼滅の刃の中でも、初めは才能を活かすよりも人間らしく生きたいと思っていても、悲劇や試練を通じて結果的に始まりの剣士・最強剣士として生きることが彼の宿命となりました。
s子:そうですね。縁壱自身も、鬼舞辻無惨との対峙の際に「私はこの男を倒すために生まれてきたのだとわかった」と言って(心の声)いました。
松村憲:まさに使命と自己が一致した様子が描かれていましたね。
小島美佳:使命と自己が一致する瞬間は、きっと神秘的な体験なんでしょうね。
松村憲:そう思います。
縁壱さんは、巨大な使命を持っている人なんですよ。だからそんなの受け入れられない、とか、宿命を持った魂として生まれて来ちゃったけれども「人間縁壱も生きたい」みたいな。
そしてその人間縁壱がとても可愛らしい。「家族と幸せに暮らしたい」とか、「本当はお兄ちゃんが大好きだったんだ」みたいな素朴な願望もある。
光と影がせめぎ合って生きる、みたいな部分はすごい素敵な話で彼の人物像をさらに豊かにしています。
マインドフルネスと宿命の関係性
小島美佳:今のマツケンさんのお話をマインドフルネスの観点から解釈すると、自分の宿命というものは、自己の深いところを咀嚼して理解するとか、その苦悩みたいなものをちゃんと経験するとか、そういったプロセスの中で明らかになるのかもしれませんね。
松村憲:そうですね、そう思いますね。
そのほうがスムーズに加速するんだと思います。縁壱さんのような英雄的な特別な魂を持った人は、ほんとに勝手に進んで行くと思うんです。例えば悲劇に見舞われて、そこからぐんぐん次のステージへ上り、なんか気づいたらヒーローになってましたとか。気づいたらすごい影響力のある人になってましたって言う人。世界的に有名になる人にも多いと思います。
しかし、英雄や著名人だけでなく、一般人でもマインドフルネスの実践によって宿命への気づきが促進されると思います。
例えば、今ここに集中することで、エゴ・自我の枠組み、『私ってこんな人』といった思い込みが緩まり、より本質的な自己に気づきやすく、向き合いやすくなります。
本質的な自己に気づいた後も、現実との折り合いやさまざまな葛藤もあると思いますが、そこはマインドフルネスの評価判断しない、「ありのままでいい」という在り方で進みやすくなる。さらに『宿命に沿っていない自分』『エゴっぽい自分』までも癒される、と感じています。
例えば縁壱のプロセスだと「本当は家族と過ごしたかったんだー」みたいな痛みがいっぱい残っているんですけれども、それらも瞑想の中で自分で癒せると思うんです。そういう未消化な思いが「あったんだよなぁ」っていう感情を味わうプロセスができるので。「お兄ちゃんが大好きだったんだよなー」っていう部分も癒しながら進めるっていうか。
小島美佳:私もその通りだな、と感じます。
今の話を聞いて、瞑想を実践し始めたばかりのs子さんから質問してみたいこととかあります?
Source : マインドフル瞑想チャンネル
誘導瞑想の中でみた鬼
s子:そうですね、私自身、一月のマツケンさんの瞑想会のガイド付き瞑想で興味深い体験をしました。「1年後の自分」をイメージするという誘導の中で、鬼や悪魔といったビジョンがまた現れて怖いなと感じましたが、「前にマツケンさんがプロの人とやるとこういうこと割とよくあるって言ってたから、きっと大丈夫大丈夫」って言い聞かせて、そのままにしたら、最終的にはその怖いイメージもなくなり、静かになっていました。
時間としては15分間ぐらいでしたが、短い時間の中でクルクルといろんなことが起こって、、、1人でやってても中々そういう体験って起こらないのと、その後感想をシェアした際、他の方は同じガイドでも全然違う素敵な体験をされてて、人それぞれの体験があるんだなぁと。なんかすごいなぁと思って、面白かったです。と言う単なる感想なんですけれども(苦笑)。
松村憲:瞑想を誘導する人や一緒に座る人がいることで、普段とは違う瞑想体験をする、というのはしばしば起こることで、それも瞑想の面白さでもありますよね。
英雄の旅と魂の導き手
小島美佳:最初にマツケンさんが話してくださったジョセフ・キャンベルの英雄神話の文脈で考えると、人生の冒険には必ず何かサポートをしてくれる存在っていうのが現れますよね。
松村憲:はい、魂の導き手がいるんですよね。
神話の中では冥界に入っていくときに必ず導き手が必要になるし、しかるべきタイミングで現れると言われています。
小島美佳:それをちょっと現代的に解釈すれば、マインドフルネスの実践においても必ずきっとサポーターがいる、適切なガイド(善友)の存在が重要、ということなんでしょうね。
松村憲:そうですね、良い導き手は絶対いたほうがいいですね。ちゃんと場をホールドしてくれて、「起きている事に委ねても大丈夫だ」という安心感を持てる人や、それを信頼できている人とじゃないと、本質的な自己への気づきなどは起こりにくいと思います。
一方で、そこを越えてしまえば自分の意識の枠も広がるので、もう大丈夫だって感じられれば、1人で瞑想をしている時にもある程度の強度が出てくるっていうか。その繰り返しな気がしますね。
小島美佳:そうですね、1度何かしら体験しておくと、次からは大丈夫なのかもしれないですね。
才能の認識:自己と他者の視点
松村憲:また先ほどの才能の話題に関連して一つ思ったのは、才能は本人にとっては最も見えにくいものかなって気がしますね。
自分にとってできること、わかっていること、当たり前な能力が実は特別な才能だったりするので、自分では普通過ぎて受け取れないとか、わからないんでしょうね。
他と比較して秀でているのに気づけない、わからないっていう、、、そこで自分に自信がなかったら「私なんて」って隠そうとしてしまう。
s子:普通にできちゃうから、「みんなができない」っていうのがわからないんでしょうね。何か自分としては普通なことをやってみたらすごいありがたがられて、これが才能なのかな?みたいな。
松村憲:そうなんです、全く自分では気づかないこともあるし、才能はだんだんと現れてくるものでもあります。
s子:縁壱さんの例で言えば、彼の人の体が透けて見える能力がそうですよね。
(※注:鬼滅の刃の作中では『透き通る世界』と表現されています。心理学でのフローに近い状態と言われています。参考記事:『鬼滅の刃』をスポーツ科学的に読む! “全集中の呼吸”の効能、イチロー&五郎丸歩の“アレ”と同じ場面は… Number Web)
伴侶との会話の中で「みんな透けて見えないんだ!?」と知って、「自分がこれまで感じていた違和感・疎外感はこれが原因だったのか」と気づく、彼自身、それが特別なものだと気づくまでに時間がかかった、というエピソードがあって。
松村憲:そうですね、縁壱なんかは自分ができることが才能だなんて全く思ってないと思います。むしろ不幸だくらい思っていたかも。
小島美佳:きっと、そこも宿命を生きる上で必要な葛藤なんでしょうね。
ただ、自分が当たり前だと思っていることや自分の才能を他人と共有できないことは、すごく悲しいことで、孤独だと思います。
その孤独も含めて乗り越え、自己の才能を受け入れていくプロセスも、人生の重要な一部なのでしょうね。